耳を、澄ます
2007-01-05


『音さがしの本 〜リトル・サウンド・エデュケーション』
R・マリー・シェーファー、今田匡彦 共著
春秋社(1996年)


谷川俊太郎さんの「みみをすます」という詩がものすごく、好きである。
娘は「生きる」が好きで、この二つの詩が我が家のボロふすまにぺたぺたと貼られている。
頭がボーっとしている朝や、時刻を問わず退屈で手持ち無沙汰だなと思ったら、ふすまに貼った詩を読む。時には大声を張り上げて。
「みみをすます」はひらがなばかりだが、描かれる風景が少し時代を遡るので、娘は理解しにくいようだ。そのかわり(というと変だが)、「生きる」の一節の「それはヨハン・シュトラウス」のくだりに好き勝手な人名を入れては、けらけら笑っている。
アホ、それが詩を鑑賞する態度か! などと叱るどころか一緒になって名詞着せ替えごっこをしている私。

「みみをすます」は、そういうふうには遊べない。
この詩には、私たちが耳を塞いだまま、聞かずにほうっておいたまま、永遠に失くしてしまった音があまりに多く描かれていて、切なくなるのだ。
この詩を読み、記憶の中にある音を探す。記憶の中にある音を、今再び聞けないか、周囲に耳を澄まし、音を探す。

「ほんの少しのあいだ、すごく静かにすわってみよう。そして耳をすましてみよう」

『音さがしの本』の中の、一節である。小学生向けのこの本は、いかに私たちが多様な音に取り囲まれているか、そしていかに多くの音に気づかないでいるか、を気づかせてくれる。

「たぶん、ほんとうの静けさなんて、ありえないのだろう」
「なにが聞こえていて、なにを聞きたいのか? ほんとうに、だれもが考えてみなければいけないことだ」

この本の著者の名を教えてくれたのは、ピアノ教師をしながら音楽療法の勉強をしていたある友人である。音信が途絶えてしまったが、彼女への感謝の念は尽きない。

下記は、ある場所に提出した「耳を、澄ます」という拙稿の草稿(なぐりがき)である。とりあえず書きたいことをだだだっと書いた、体裁を整える前の、最初の文章。冗長で散漫だが、全文をここに貼りつけておく。
前述の友人、ならびにこの『音さがしの本』への感謝をこめて。


「耳を、澄ます」

 風邪を長引かせていた娘の耳に異変を発見。耳だれが出ている。
 「お耳、痛くない?」
 私の問いかけに、娘はきょとんとした顔でかぶりを振った。耳孔の周りにべっとりとついた膿のような液体は半ば乾いている。痛み、あるいは違和感があったとしても、もう数時間前だったのだろう。まだ二歳にもならない娘は、耳が痛くても気持ち悪くても、それを言い表す術をもたない。ましてや、睡眠中なら気づきもしないはずだ。膿が鼓膜を破り、耳の外へ流れ出て押し寄せる……などという具体的な夢を見てうなされる、などということが二歳の子どもに起こるとも思えない。
 「幼児にはよくある症状ですよ。細菌性でなければ心配はないし、風邪が治れば耳も治ります」
 かかりつけの小児科医の言葉に安堵して、私は娘の耳にせっせと点耳薬を落とした。幸い、耳だれはその日以降、もう出現しなかった。

 しかし、子どもはしょっちゅう風邪をひく。保育園に預けていると、病原菌は次々と現れては空中を伝播し、容赦なく、これでもかといわんばかりに幼児の体に入り込む。娘の耳に耳だれを再発見するのに、さほど時間はかからなかった。
 再び小児科医の診察を受け、前回と同様の処方をしてもらい、そして症状は治まった。

 ところがある日、私は娘の別の異変に気がついた。
 初めて耳だれを出した日から数か月は経過していた。二歳半の娘はよく話し、歌っていた。だがこの日、いつもかける童謡のCDに反応しない。
 「お歌、歌わないの?」

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[こども]

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