La Petite Bijou
2015-03-26


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なぜこの女に老いも若きも振り回されねばならないのか。……この問いは物語に感情移入して発するのではない。この女優の存在のつまらなさのせいで、映画全体が退屈なものになってしまっている。戦争が背景にあり、かつてのフランス社会に厳然とあった階級制度の名残りがちらつく。よく準備された申し分ない設定のはずの映画で、つまらぬ自問を発するしか感想のもちようがないなんて。
時代や身分がどうであろうと所詮男と女がからみ合うのよ、といったふうのいかにもなフランス映画といってしまえばそれまでで、ルコントの映画はつまりそんなのばっかりなんだけど、でも彼は俳優にその力を最大限に発揮させて従来の何倍も魅力あふれる人物に仕立て、台詞と、構成と、カメラワークと、編集の才で、ありふれたメロドラマを極上の映画に仕上げるシネアストなのだ。
なのに、これ。『イヴォンヌの香り』。

『イヴォンヌの香り』の原作はパトリック・モディアノの『Villa triste』である。パトリス・ルコントは作家モディアノを非常に敬愛し、愛読していると取材時にも話していた。もちろん私は、モディアノの名前を聞いても「誰それ、何それ?」状態であったが、のちに映画のクレジットをチラシで見て、その名前を確認はした。パトリック・モディアノ。ところが不幸なことに、『イヴォンヌの香り』に幻滅するあまり、その幻滅に原作者の名前も巻き込んでしまった。1994年。せっかくパトリック・モディアノと出会いかけたのに、顔も見ないで私は席を立ってしまったのだった。

ずっと後になって、図書館のフランス文学の書架にモディアノの名前を見つけたとき、どうしても読む気が起こらなかったのだが、そのときなぜ読む気になれないのかがわからなかった。『イヴォンヌの香り』の原作者であることなど、とうに忘却の彼方なのだった。なんだかわからないけど「お前なんかに読んでもらわんでええ」と本の背に言われているような気がして、私はモディアノを手に取らずにいた。

ところがある日、モディアノとの再会は強引に訪れた。『さびしい宝石』と書かれた本の背に、原題とおぼしき「La Petite Bijou」という文字もデザインされていた。おおお、ぷちっとびじゅー、と私は思わず口走っていた。というのも、私は娘が生まれてから3年ほどのあいだ、ハードカバーのノートに子育て日記をつけていたが、そのタイトルを「Ma petite bijou」にしていたのだ。私の可愛い宝石ちゃん、くらいの意味だが、「ビジュ」の語感がいかにもベビーにぴったりで、我ながら気に入っていたのだった。これを読まないでどうする。私は小説家の名前も見ないでこの本を借りて読んだ。

19歳のテレーズは幼い頃母親と生き別れ、母親の女友達の家に預けられて育つ。母親は彼女を「La petite bijou(可愛い宝石)」と呼んでいた。いまテレーズはパリでなんとかひとり暮らしを始めようとしている。ある日混み合う地下鉄の駅で母親に似た人を見かけ、その後をつけていくが……。

パリの雑踏、夜の舗道の暗さ、親切な人、得体の知れない人、自分の中で交錯するいくつもの記憶、自分でもとらえきれない、母親にもつ感情。


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