2014-03-31
母の介護してるんです、もうずっと前から。
あ……。ああ、そうなんだ。そりゃ……たいへんだね。そりゃしょうがない。
上皇や皇太后の介護は何にも勝るのだ。
得意先を回って、キコキコとチャリを転がして、御苑や公園のように広い場所に並んで咲く桜、学校の塀の向こうから枝を覗かせる桜、神社の社のそばで枝を垂らす桜、間口の狭い町家の奥庭から満開の花さきを路地に覗かせる桜の数々を見て、いちいち立ち止まって写真を撮る人たちのだらしない笑顔を見て、多すぎる電柱と電線と交差する裏通りの桜を見て、どうしても美しいと言わざるを得ない風景の断片とすれ違いながら、しょうがないなあお前らあたしが面倒見てやるよ、的な気持ちになるのはいったいなぜなんだろう? このまちから逃げ出したくてしょうがなかった十代の頃と、今のあたしと、40年経ったという以外に何が違うというのだろう?
たぶんそれは、今、春だからだ。
季節が巡るからだ。
全部投げ出して逃げてもよかったのに逃げずにここにいればまた春が来るということを、10歳から数えて40回経験した。それしかないのだけれど、それは意外とかなり大きいというわけなのだ。このまちで、その時間と季節の巡りを体感し続けている。私を上回ってそれを体感し続けている高齢者を尊ばないわけにはいかないし、断片的にしか訪れない観光客や通ぶってても数回リピートしている程度の旅行者なんぞをもてなす気も媚びる気も起きないのは、至極当然ってわけさ。
先月の、二条城の梅。
先週の、ウチのすみれ。
今週はもうこの倍くらい、花がついているよ。
疲れた。なんだかすごく。ものすごく、疲れた。
しばらく私を冷凍してどっかにほりこんでおいてくれないだろうか、ねえ、誰か。
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