MUMYO, c'est l'ignorance profonde ou expres
2013-03-14


小林さんの学問に関するお話は、いかにももっともと思います。それを無明ということから説明すると、人は無明を押えさえすれば、やっていることが面白くなってくると言うことができるのです。たとえば良寛なんか、冬の夜の雨を聞くのが好きですが、雨の音を聞いても、はじめはさほど感じない。それを何度もじっと聞いておりますと、雨を聞くことのよさがわかってくる。そういう働きが人にあるのですね。雨のよさというものは、無明を押えなければわからないものだと思います。数学の興味も、それと同一種類なんです。》(「無明ということ」12〜15ページ)


小林秀雄の「無常といふ事」が大好きで何度も繰り返し読んでいるわたくしであるが、岡潔いうところの「無明ということ」もなかなか手ごわそうである。このくだりを読んで、岡潔の著作に一気に関心が高まったことを白状する。
無明とは、全然イケてないくらい、まさに終わってるほど無知だけど、そのうえジコチューな行動をとらせる本能だけど、それさえクリアしたら、にわかに人生ワクドキに展開する。イマふうに言えばこういうことなのか?(笑)
無明とは、学びが足りないゆえの知識の欠乏などではなく、どちらかといえば、知ること学ぶことができるのにあえてそれをせず、というよりそれから逃げて、むしろ無知無学を標榜してあたかもそれが強みであるかのようにふるまうことではないか。そりゃ、醜悪だな。愛するウチダいうところの、学びから逃走する子どもたちだな。

本書によれば、無明の輩はすでに1965年(本書のもとの出版年)に跋扈していたわけだから、そりゃ、今、日本が文字どおり「世も末」をリアルにゆくのは道理だな。

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