2012-06-14
この演説で同一語を二つの違う意味で用いているのは、キーワードである「国民生活」である。
この語は前半と後半でまったく違う、そもそも両立しがたい意味において用いられている。
前半における「国民生活」は「原子力発電所で再び事故が起きた場合の被災者の生活」のことを指している。
首相はこう述べている。
「国民生活を守ることの第一の意味は、次代を担う子どもたちのためにも、福島のような事故は決して起こさないということであります。」
「何から」国民生活を守るのかは、この文からは誤解の余地がない。
原発事故の及ぼす破壊的影響から守る。
たしかに首相はそう言っている(のだと思う)。
だが、それは私たちの読み違いであることがわかる。
首相はこう続けているからである。
「福島を襲ったような地震・津波が起こっても事故を防止できる対策と体制は整っています。これまでに得られた知見を最大限に生かし、もし万が一すべての電源が失われるような事態においても、炉心損傷に至らないことが確認されています。」
注意して読んで欲しいのだが、首相はここでは福島原発を襲ったのと「同じ」震度の地震と「同じ」高さの波が来ても大丈夫、と言っているだけなのである。
だが、福島原発「以上」の震度の地震や、それ「以上」高い津波や、それ「以外」の天変地異やシステムの異常や不慮の出来事(テロや飛来物の落下など)を「防止できる対策と体制」についてはひとことも言及していない。
そのようなものはすべて「想定外」であり、それについてまで「安全を保証した覚えはない」とあとから言われても、私たちは一言もないように書かれている。
次の文章も官僚的作文のみごとな典型である。
「これまで一年以上の時間をかけ、IAEAや原子力安全委員会を含め、専門家による40回以上にわたる公開の議論を通じて得られた知見を慎重には慎重を重ねて積み上げ、安全性を確認した結果であります。」
これは原発の安全性が確認されるというこの所信表明の「きかせどころ」なのだが、何とこの文には主語がないのである。
いったい「誰」が安全性を確認したのか?
うっかり読むと、これは「IAEAや原子力安全委員会」が主語だと思って読んでしまうだろうが、たしかに不注意な読者にはそのように読めるが、実は安全性を確認した主語は存在しないのである。
意味がわからなくなるように周到に作文されているのである。
これを英語やフランス語に訳せと言われたら、訳せる人がいるだろうか。
私がフランス語訳を命じられたら、「安全性を確認した」のところはたぶんこう書くだろう。
La securite s’est confirmee
これは代名動詞の受動的用法と呼ばれるもので、「安全性」というものが自存しており、それが自らを確認したというニュアンスを表わす。
つまり、人間は誰もこの確認に関与していないということである。
La porte s’est fermee は「扉が閉まった」と訳す。
「誰も扉を閉めていないのに、扉が勝手に閉まった」という事情を言う場合に使う。
たぶん、それと同じ用法なのである。
だから、仮にその後何かのかたちで「安全ではなかった」ことがわかったとしても、文法的には、その責任は勝手におのれを「確認」した「安全性」に帰せられるほかない。
だが、そうやって「安全性を確認」した主体を曖昧にしただけでは不安だったのか、ご丁寧に、そのあとには「結果であります」ともう一重予防線を張って、さらに文意を曖昧にしている。
もう一度この文を読んで欲しい。
「これまで一年以上の時間をかけ、IAEAや原子力安全委員会を含め、専門家による40回以上にわたる公開の議論を通じて得られた知見を慎重には慎重を重ねて積み上げ、安全性を確認した結果であります。」
「安全性を確認した結果」とは何を指すのか。
「安全性を確認した結果」は実はこの文の前にも後にも言及されていない。
それが出てくるのは、はるか後、演説の終わる直前である。
セ記事を書く